そういえば、あれなんだったんだろう?

ロックンロールな町でのできごとのあれこれです

グローバリゼーション1

山奥のほうに、オルゴール工場ができた。
といっても、畑をつぶして砂利を敷いた上にプレハブ小屋をのせただけのところだ。

そこでは、横分けのお兄さんと、黒髪ストレートのお姉さんがたくさん働いていた。

ときどきみんなで二列になって朗らかに笑い合いながら山から降りてきていた。

市場で野菜や肉、米、お酒をたくさん買って、
タカラ本みりんだか、サッポロポテトベジタブルだか、なんだかそんな感じの貰いものの段ボールに詰めては、
また二列になって朗らかに笑い合いながら山に帰っていった。

あれは中国の人やね。

若者たちの笑い声に驚いて、あわてて窓の外をみた私に、母はそういった。

たしかに言葉がわからない。

ソフトボールの監督

男子中学生がパンチパーマをかけた80年代、
少年ソフトボールの指導者ももちろんパンチパーマだった。

グラサン、喜平ネックレス、口ひげ。
右手にバット。

錆びたパイプ椅子に座り
「きさーん、こら、くらしあげるぞー!」
(貴様、こら、なぐりまくるぞ)

と、小学球児に気合いをいれまくる。


ゴロを拾う時腰の位置が高ければ、ケツバット。

声が小さければ、ケツバット。

人数合わせで入れられた低学年が、外野を守ってる間に手遊びを始めたら、ケツバット。

帽子を忘れても、ケツバット。

練習を忘れてうっかり公園に遊びにきてしまい、監督と練習しているチームメイトと鉢合わせしても、ケツバット。

そんな指導者が、あのころ町中の公園にいた。
平日の夕方に。

なんの仕事をしてたんだろう。

急な来客

農家だったせいか「なんでもいいので食べ物ください」みたいな新規問い合わせが、年に一回くらいはあったように思う。
備長炭でモモ肉でも焼くバイトでもしてたのかというくらい、脂で曇ったメガネのにいちゃん。
新しいデザインなのかとおもうほど、すそに様々な穴が空いているTシャツをきたおじさん。
「ヒゲッッッ!!!」という感想しかのもらせないほどの、ヒゲを持つ、おじさん。
あと、なんかあげるまで帰らない琵琶法師。黙っていられても困るけど、大声で玄関先で平家物語を弾き語るので震撼した。若干トラウマになっている。
思えば飛び込みでくる「なんかください」系の人は、全員男だった。

玄関の鍵を開けるバイト

前回の公設市場の続きです。
公設市場にある八百屋で、一緒に暖を取った仲間のおばちゃんの一人、茶髪のパーマで顔が現在の武田鉄矢に今思えばよく似ていたおばちゃんは、よく家の鍵をなくしていた。
そんなとき、おばちゃんは公園に現れる(例の、巷のFA宣言をしたおじさんが、三角ベースの出張コーチを無償で行ってくれる公園だ)。
おばちゃんは関西弁で小柄で敏捷な子供に「おねえちゃん、ちょっとお手伝いしてくれへん?」と声をかける。
そして、自宅に連れていき、自宅のトイレの窓から家の中に入り、玄関まで移動して玄関の鍵を開けてくれるよう頼むのだ。
トイレはくみ取り式で、窓の横にはひょろりとした塩化ビニールのパイプが一本ゆがんでたっていた。
窓の脇のブロック塀をよじ登り、子供が半身になってようやく入れるようなトイレの小窓から侵入する塩梅だ。
パイプを触らぬよう、また、窓から直下で大きな口を開けている和式便所にはまりこまぬよう、十分注意しながら、後ろを向いて足から便器の脇の丸くて小さな色とりどりのタイルがしきつめられた床に着地する。
危ない。
慎重に降りようと壁に体を密着させたせいで、スカートのお腹の部分は砂壁の表面が付着して、ザラザラかつキラキラしている。
汚い。
ひんやりとどこか湿ったトイレのタイルの床は、そういうわけでどうしても裸足で歩かねばならない。
気持ち悪い。
そのまま廊下に出ると、タバコとオール阪神巨人が宣伝していた「車にポピー」の匂いがまじった、甘くてムッとするおばちゃんちの香りに圧倒される。
くさい。
茶の間の脇を通ると、おばちゃんが飼っているマルチーズがケージの中から狂ったようにほえている。
こわい。
それを横目に玄関まで行き、靴箱の上の水槽にいる巨大な金魚たちに励まされてガラスの引き戸の内鍵を開けると、安堵した顔のおばちゃんがお出迎えだ。

その後、おばちゃんは公設市場の八百屋に連れていってくれて、なんでもすきな飲み物を飲ませてくれる。
わたしはたいていヨーグルト(といっても牛乳瓶に入った薄茶色の半透明の液体だ)にしていた。瓶の蓋が欲しかったからだ。
摘んできた花を飾りたいとか、鉛筆立てなど自分用のコップがほしい時には、生姜が効いた甘くてどろりとした喉越しの飴湯にした。
飴湯の容器がわんカップ大関の要領で、縁の厚いガラスコップだったからだ。
下の方にぐるりと、濃い赤や黄色の小花模様があしらわれていたように思う。

そういえば、あのコップはどこにいってしまったのだろう。

一斗缶と七輪で暖を取る公設市場

家から徒歩30秒のところに、公設市場というのがあった。
八百屋や肉屋、魚屋、惣菜屋、たこ焼き屋、和菓子屋、パン屋、花屋、酒屋がはいっていた。
学校の下足場のような、昔の屋外プールの更衣室みたいなセメントで固めたねずみ色の床で、ベニアみたいなペラペラの壁で店舗間を仕切っていた。BGMは演歌の有線。
私は酒屋の娘と仲が良かったので、小学校低学年までは、彼女と絶交しないかぎりほぼその周辺で過ごしていた。
また、例の自称コーチが現れる公園は、公設市場の真裏。八百屋には駄菓子があるし、惣菜屋にはうずら玉子フライ30円が売ってるし、たこ焼き屋のお姉さんはいい人なので、一芸を見せたらたこやきを一個だけくれたりするし(決まった数で売ってたのに、端数を出させてしまい、いま思うと申し訳ない)、パン屋の工場にも入れてもらえるので、なかなかの良スポットだった。
冬はよく、八百屋で暖を取った。
一斗缶の中に、練炭だか豆炭だかをいれ、ガンガンに燃やしていた。
一升瓶を入れる木箱を立て置きにした椅子をそのまわりに並べ、八百屋のおばさんや客とみんなで囲むのだ。
するめを焼き出すと匂いでわかるので、たこ焼き屋のお姉ちゃんと楽しくじゃれあっていた我々もすぐ八百屋に急行したものだ。
パンチパーマがのびたみたいな、ジャラジャラ声のおばちゃんは、タバコを吸っていた。
パーマを当てた茶髪のおばちゃんは肌色の湿布を首の後ろに貼りまくっていた。今思えば、現在の武田鉄矢に顔が似ていた。
おばちゃんたちはたいていがま口をもっていて、近くにある観光名所的なお寺で買ってきたひょうたんのキーホルダーをつけていた。
ひょうたんの口に目を当てると、中に観音様の絵が浮き上がる、よくあるやつだった。
するめが焼けるのを待つ間、よく観音様をみて暇を潰していた。
床に向ければ、暗がりの中に浮かぶ、あやしい観音様。
出口に向ければ冬曇りの凛とした明るさをしょった観音様。
一斗缶の中を見れば、ゆらゆら動く赤い煉獄の、ドラマチック観音様だ。

おばちゃんたちは、夫や嫁姑の悪口をしていた。
するめはだいたいかたくておいしくなかった。

自称コーチ

以前、子供と野球を見に行って、一塁も三塁も三振もフォアボールもわからず、卒倒しそうになったことがあった。

「習ってないから」と君たちはいうが、
そんなものは一般常識として人生のどこかでおぼえるものではないか、
と、母として思った。

が、はたしてそうか。

私は、野球チームにも入っていなかった田舎のいち女子であるのに、
バットを正しく振ることができるなあ、
と、思い至った。

誰かに教わったからだ。

そうだ。

うちの町には、熟柿の匂いのする自称コーチのおじさんがその当時複数名いた。

今思えば人生のFA宣言中だったのだろう。
おそらく、去年の上原みたいな状態だ。

コーチはだいたいパリーグの球団の帽子を被り、
痩せてる人も太っている人もいたが、

たいてい顔色が黒く、サングラスをしていた。

足元は雪駄が多かったように思う。

なので走塁の指導はしない。

私達が三角ベース風に庭球ボールをプラバットで打っているところに現れては、
チャンスで打てない低学年をやじり倒したり、
トンネルをした低学年のために試合中いきなり打席に立ち、ノックをはじめたりするのだった。
そう、基本がなってないのが許せなかったのだ。

私達は、おじさんたちが横暴でも、
何もいわなかった。

おじさんたちのかける西部警察みたいなサングラスにみとれていたのでも、
まず初動がキレ気味だったことに圧倒されていたのではなく、

やベー。おもしろいのきた!!!


と、登場を心待ちにしていたのだ。
切れ気味の酔っぱらいのおっさんが、
三角べースに乱入してくるという緊張と、
ノックを打ちながら、思いっきりすっころぶ、という緩和に、
あのころ震えながら爆笑したものだ。

…というクソガキ的な感想ももちろんあるのだけれど、単純に一緒に遊んでくれる大人が単純に好きだったんだろうと思う。

おじさん達は、ファッションリーダーが私服の仰木彬なので、全く子煩悩には見えないのだが、
おじさんのがんばりのおかげで、公園内の子どもらのスキルが底上げされ、どんなにみそっかすなメンバーしかいなくても、我々の公園では野球が成立するようになっていたのだ。


ちなみにわたしは、自転車のハンドルいっぱいにブザーをつけているおじさんが、一番好きだった。
自転車のブザーは徐々に増やしたらしく、ボロッボロのものも混じっていた。
うっかりブザーを鳴らそうものなら、ダッシュで公園から逃げないといけないくらい怒られた。
わたしはそんな根性はなかったが、当時小学校中学年の現役のやんちゃだった兄と友達が毎回鳴らしては、脱兎のごとく家に逃げ帰っていた。
「きさま!」と叫び、公園の出口まで追いかけるおじさん。わたしは「さんまいのおふだ」のやまんばのことを毎回思い出しながら、恐ろしい思いでそれをみまもっていた。

たまにだれかのばあちゃんがいたりすると「子供相手にそんなに怒っちゃいかん!」とさらにおおきい声で一喝されていた。
それがアイスブレーキングトークとなり、木の影でばあちゃんと長々身の上話をしている回もあった。

しばらく来ていないと、どうしたのかと、子ども一同内心心配した。
だから、久々にあらわれると、公園にあふれる子どもたちは一気にもりあがった。

入院してた、とか、そういうことを言っていたような気がする。

だから、姿をみせなくなってからしばらくして、みんな「あの人は死んだ」と言うようになった。
もちろん、ウェットな感情は一切ない。
事実としてだけである(うわさだけど)。



そうした自称コーチのおじさんのおかげで、わたしはバットを正しく振れるのだ。

「びわ食べ道」の話

小学校の通学路に、立派な琵琶の木があった。

一緒に登下校していたKちゃんと、その道を「びわ食べ道」と呼んで、初夏にその木に実がなるのを楽しみにしていた。

ちょうど「となりのトトロ」が公開した頃で、私もKちゃんも気持ちはさつきちゃん。

自然ゆたかなところで、古い家並みと年寄りに囲まれ、かなりいい線いっているなと思っていた。

 

なので、ある日全校集会で校長先生が「琵琶食ってるやつは誰だ!」と全校児童に呼び掛けたときは驚愕したものだ。

 

その木は、人の家の庭に生えているものだった。

 

私とKちゃんは、山のへりみたいな、半分竹藪みたいなけもの道を登下校に使っていたが、そこは残りの半分が人の家の敷地だったのだ。

 

風薫る初夏の頃、琵琶の実はとってくれといわんばかりにふっさふさになっていたので、

下校途中に琵琶の手前にあるフェンスをよじ登り、

琵琶の実に手が届くようにとフェンスの上でつま先立ちで立ち上がり、

ばりばりもいで、

むしゃむしゃ食べて、

食べかすをよその庭に散らかして帰っていた。

 

とんだ「となりのトトロ」だった。

でも、気分を壊された私たちは憤慨していたように思う。